ラテンアメリカ研究

中南米文庫

中南米文庫の前身である南米文庫は、昭和13(1938)年に神戸商業大学商業研究所に開設された。野田良治、福原八郎、青柳郁太郎らから寄贈された貴重な洋書コレクションが基盤になっている。
このコレクションには、16世紀スペインの詩人Diego Hurtado de Mendozaの作品集(1610年)、ポルトガル人探検家Fernão Mendes Pintoが種子島に鉄砲が伝来したころの日本を含む東洋での検分を記したPeregrinaçam(『遍歴記』1614年)、聖アウグスチノ修道会Christovam de Almeida修道士の説話集(Sermoens 初版本1681年)、Juan de Ferrerasのスペイン史(1724年)、Edward Bancroftがギアナの生態を著したAn essay on the natural history of Guiana(1769年)、スペインとポルトガルの間で現在のブラジル南部からウルグアイの地域の植民地の帰属を定めた1777年イルデフォンソ条約の条約文、南米を経由してオーストラリア発見につながったジェームス・クックの第1回航海(1768~1771)記録のフランス語版(1789年)、スペインが植民地を統治するために定めた法令集 (1791年)など、17~18世紀に欧米で出版された稀少な本が含まれている。また、ここで所蔵されている19世紀から20世紀にかけて欧州や南米で出版された南米の地理、歴史、文化、政治、経済に関する資料も世界的にきわめて貴重である。

神戸大学経済経営研究所では、引き続き近年のラテンアメリカの政治経済に関する資料の収集に努めている。

神戸大学経済経営研究所 図書館「所蔵資料案内:中南米文庫・オセアニア文庫・アメリカ文庫」

野田良治

明治8(1875)年、丹波何鹿郡(現在の京都府福知山市)に生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)卒業後、明治30(1897)年に外務省に入省。フィリピン、メキシコ、ペルー、チリ、ブラジルなどに在勤した。1909年に開始したブラジル在勤の記録をまとめた『ブラジル人国記―実査十八年』『大アマゾニア』『らてん・あめりか叢説』『南米の核心に奮闘せる同胞を訪ねて』などの著書がある。昭和10 (1935)年に退官。退官後、『日葡辞典』Ⅰ・Ⅱを独力で編纂し出版。昭和43(1968)年に93歳で没。(参考文献・中川清・児玉悦子「西和辞典の周辺」『敬愛大学国際研究』第6号2000年11月)

青柳郁太郎

慶応3(1867)年、現在の千葉県生まれ。明治20(1887)年、北米遊学中にカリフォルニア大学の図書館で南米に関する資料を読み、ペルーの現地調査を実施し、『秘魯事情』を出版。その後、ブラジルへの集団移住地の建設について研究し、1908年に桂太郎首相に意見書を提出したが政府に受け入れられなかったが、企業組合東京シンジケートを結成し、自ら拓殖事業に乗り出した。1910年から1年半同組合のブラジル駐在員として移住候補地を視察し、サンパウロ州政府との間に土地無償譲渡契約を成立させた。しかし、民間出資を集めることができず、最初の日本人集団移住地建設事業は政府が設立したブラジル拓殖会社の事業として行われた。著書に『ブラジルにおける日本人発展史』(上・下巻)がある。昭和19年、84歳で没。
サンパウロ人文科学研究所 「ブラジル物故先駆者列伝 青柳郁太郎」

福原八郎

明治7(1874)年福岡県三池郡生れ。明治32(1899)年東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業後、農商務省実業練習生として北米に渡り、紡績事業を研究した。36年(1903)帰国後鐘ヶ淵紡績株式会社に入社。大正15年(1926)に外務省がアマゾン調査団を派遣した時、鐘紡の武藤山治社長は調査費の一部を負担するとともに、東京本店工場長であった取締役の福原八郎を調査団長に派遣した。このときの調査に基いて、昭和2(1927)年に南米拓殖会社が誕生し、福原が社長に就任した。1929年に同社のアマゾン移住が開始され、福原はアマゾン地域への日本人入植に尽力したが、熱帯の厳しい気候条件の下で入植事業は難航し(角田房子氏の小説「アマゾンの歌」)、成功を見ないまま1935年に帰国した。昭和18年(1943)死去。
サンパウロ人文科学研究所 「ブラジル物故先駆者列伝 福原八郎」