ラテンアメリカ研究

神戸大学におけるラテンアメリカ研究100年の歩み

1.移民研究を中心とした黎明期

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1908年4月28日。ブラジルに向かう最初の移民船笠戸丸が神戸港の岸壁を離れるのを見送る群衆の中に当時長崎高商教授であった田崎慎治がいた。田崎は神戸高商の初代校長水島鉄也に招かれて神戸高商に移籍することが決まり、その打ち合わせのためにこの日たまたま神戸を訪れていたのだ。学生時代にニューカレドニアに鉱山労働者を送り出す事業にかかわった経験を持ち、日本が発展してゆくためには海外移住に目を向けなければならないことを確信していた田崎は、「これからは南米だ」との強い思いを抱いた。田崎は水島の後を継いで神戸高商第2代校長となり、その後神戸高商が神戸商業大学に改編された際の初代学長に就任したが、この間一貫して学生に南米研究を奨励した。ブラジルに移住した神戸高商卒業生によってアマゾン開拓を目的としたアマゾニア産業研究所が設立されると、学長という要職にあったにもかかわらず約6か月間を費やして現地を視察するという熱の入れようであった。

1912年に東洋大学創始者である井上円了が南米視察から帰国して神戸高商で行った講演会の席上、学生有志が南米同志会を組織し、神戸大学における南米研究は黎明期を迎える。同会からアマゾニアの開拓と移住事業に尽力した上塚司(衆議院議員)、栗津金六、辻小太郎、南米銀行を創立した宮坂國人などが輩出した。南米同志会は1931年に拓殖研究会へと発展し、1935年から戦争により活動の中断を余儀なくされる1941年まで、機関誌『拓殖研究』を7巻発行している。

1938年には神戸商業大学商業研究所(現在の神戸大学経済経営研究所の前身)に、福原八郎(鐘紡、のちに南米拓殖)と野田良治(外務省)の寄贈図書を基盤にして南米文庫が設置された。研究所は1941年に移民政策研究の金田近二(のちに神戸市外国語大学学長)を主幹とする中南米調査室を設置したが、太平洋戦争勃発により研究は中断する。

戦後、1949年に新制神戸大学が設立され、1951年に、戦前の拓殖研究会を復活させ南米研究会が設立された。南米研究会はブラジルに移住した宮坂國人、辻小太郎両氏の資金援助により、『拓殖研究』を引き継ぐ『南米研究』を創刊し、1954年の創刊号から1972年の第16号まで発行している。1956年に田崎慎治の遺産を基盤にして学生の南米研究を奨励する目的で設置された田崎奨学金は今日まで受け継がれている。

1951年に経済経営研究所に中南米研究会が設置され、『ブラジル経済の実態とその政策』(中南米研究叢書Ⅰ、1953年)を出版した。この研究会が1956年には経済経営研究所に文部省の認可を受けた正式な部門として中南米経済研究部門が設置された。その立ち上げを指導したのは、1957年にサンパウロ大学政治社会学院から招聘した日系移民研究が専門の社会学者・斉藤広志助教授であった。

2.本格的な経済研究によるその後の発展

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高度経済成長を経験した豊かになった日本の南米に対する関心は、移民の送り出しから天然資源を中心とした貿易や現地市場を対象にした直接投資に移っていった。これにともなって、神戸大学における南米研究も本格的な経済分析に軸足を移していく。、1978年に着任した西島章次により、本格的な経済研究が行われるようになった。の変化を反映している。

1959年に経済経営研究所に着任した西向嘉昭を中心に1960年代に経済経営研究所から『ブラジルの経済発展の一般的特質』(中南米研究叢書Ⅴ、1963年)、『ラテン・アメリカ経済の諸問題』(中南米研究叢書Ⅵ、1967年)、『ラテン・アメリカ経済統合の理論と現実』(神戸大学経済経営研究所経済経営研究叢書15、1969年)などが出版された。この他にもアジア経済研究所から委託を受けた神戸大学教員の研究成果として『ラテンアメリカの経済』(Ⅰ)(Ⅱ)、『ブラジルの経済構造』、『アルゼンチンの経済構造』、『ラテン・アメリカ経済統合と経済開発』、『ブラジルの工業化とインフレーション』、『ブラジルの産業開発』が相次いで出版された。

その後も、西向嘉昭著『ラテン・アメリカ経済統合論』(有斐閣、1981年)、西島章次著『ブラジルの高度成長期の研究』(神戸大学経済経営研究所経済経営研究叢書23、1981年)、西島章次著『現代ラテンアメリカ経済論―インフレーションと安定化政策』(有斐閣、1993年)など、時局の重要課題に関する研究成果が生み出された。

1993年に新設された国際協力研究科に松下洋、2000年に経済経営研究所に細野昭雄が着任し、西島とともに日本を代表するラテンアメリカ研究者が六甲台キャンパスに研究室を構えていた。細野は2002年にエルサルバドル大使に任命された。