2004年5月25日記 

正念場を迎えたルラ・ブラジル大統領

神戸大学経済経営研究所教授 西島章次

 ブラジルのルラ大統領は就任後1年半を迎えようとしているが、これまでの改革の成果が必ずしも国民生活の改善に直結せず、ルラ政権に大きな期待を寄せた人々の支持が低下するなかで、政策運営で苦しい立場に立たされている。
 ルラ政権は、絶大な人気を背景に様々な改革に予想外の成果をあげ、ブラジル経済への信任を高めてきただけに、今後の政策運営はまさにルラ大統領の正念場といえる。

求められる成長率の回復
 労働者党(PT)出身のルラ大統領に対しては、当初、その政権が左派的イデオロギーに基づいて運営されるのではないかという強い危惧があった。しかし、現実の政策運営では、柔軟な現実的路線が採用され重要な改革が実現するとともに、貧困層を直接的に対象とする社会政策が巧みに組み合わされ、高い支持率を維持してきた。
 例えば、議会での幅広い政権基盤のもと、前カルドーゾ政権では実現せず、これまで聖域であった公務員の年金改革を実現するとともに、企業競争力を阻害してきた税制改革に一定の成果を挙げたことは高く評価される。
 財政健全化に関しても、2003年にはGDP比で4.3%のプライマリー収支の黒字を実現し、IMF(国際通貨基金)との合意であった4.25%をクリアーするなど、国民に緊縮の犠牲を強いるものの、国際金融市場からの信頼回復に成功したといえる。
 他方、ルラ政権下でインフレ動向を勘案しながら基本金利(SELIC)を26.5%のピークから今年4月には16%にまで引き下げ、政府債務の返済負担の軽減に大きく前進したことも重要な成果だといえる。
 前政権下で急激に増大した政府債務は政権にとっての最大の懸案であり、2003年末で約3340億ドル、GDPの58%に達している。しかも、その約50%が短期金利で調整される国債で、金利の上昇によって債務額が増加する構造となっており、政府債務利払いが2003年にGDP比で8%に達していたからだ。
 ところで、ルラ政権が描いたシナリオは、第1段階で厳しい緊縮政策によって国内投資家と国際金融市場からの信頼を勝ち取り、成長への条件を形成し、第2段階で成長率と雇用の回復を実現するというものであった。だが、2003年の実質成長率は厳しい緊縮政策のためにマイナス0.2%と、過去10年間で最低となった。また、失業率は政権発足前の10.5%から昨年末の12.3%に悪化し、平均実質賃金も昨年の一年間で6.2%も低下した。
 このため、労働者階級出身の大統領に対し、暮らし向きが改善されると大きな期待を抱いた国民の失望感は大きい。実際、ルラ大統領への支持率は、就任直後の80%から徐々に低下し、今年3月末には53%となっている。
 改革の成果が出るには時間がかかるが、改革のコストは即時的に現れる。緊縮政策による経済正常化と貧困問題の解消という二律背反の課題を背負うルラ政権に対し、第2段階の成長率の速やかな回復が求められているのである。

困難な今後の政策運営
 こうした状況で、今年2月には、ルラ大統領の腹心であり政権の中枢を担うジルセウ官房長官と関係の深い、ディニス補佐官の汚職が発覚した。クリーンなイメージを売り物としていたルラ政権にとって始めての政治スキャンダルとなり、今後の議会運営に不安を残すことになった。 
 また5月に入り、ルラ政権のつまずきとなったのが、最低賃金の調整に関する暫定令が議会で否決されたことである。現行の240レアルから260レアルへと改訂する政府改定案は、低すぎるとして上院で否決されてしまった。反対は野党のみならず、労働組合からの圧力を受けている連立与党からも出されており、審議はルラ大統領の5月22日の中国訪問後に持ち越すことになった。
 最低賃金法案の否決は、市場に財政収支の悪化を予想させ、翌日には金融市場は大きく動揺した。おりしも、米国の利上げ観測が強まっていることもあり、通貨レアルは1ドル=3レアルを割り込み、1年ぶりの安値となった。JPモルガンのカントリー・リスク指標(EMBI+)は今年1月の384から、5月には600台まで上昇している。
 この他、ルラ政権には、公務員ストライキ、土地無し運動(MST)の攻勢による農地の占拠、リオを中心とする治安問題の悪化など、直面する課題は多い。こうした社会情勢に対しても、経済の緊縮化を維持しながら経済成長を早期に実現しなければならない。
 しかし、問題は経済成長のための財政・金融などのマクロ政策が制約されていることである。2003年は8.5%のインフレ目標が設定されていたが、現実のインフレ率は9.3%で、2001年から3年連続で目標値が達成されないことになった。インフレ安定化が依然として確実となっていない段階では、これ以上の基本金利の引き下げには慎重とならざるを得ない。ましてや米国の金利引下げが予想される状況にあっては、資本流入の観点からも金利引下げは得策ではない。
 このため、企業・産業レベルでの改革が必須となっており、民間資本によるインフラ投資の促進、会社更生を促進する新破産法の整備、裁判官の汚職撲滅と裁判手続きの簡素化を目指す司法改革などの関連法案の早期可決が望まれている。
 もはや、国民とルラ政権との政治的蜜月は終焉し、国民のルラ政権による具体的な成果への要求は高まるばかりである。現状が引き続き、失業と賃金低迷から脱出できなければ、人々のルラ政権への圧力は強まり、政権とすればポピュリスト的な政策への転換を余儀なくされるかもしれない。そうなれば、これまでの努力は水の泡と帰す。ルラ大統領の手腕が問われている。