岐路に立つメキシコのFTA戦略
神戸大学経済経営研究所長 西島章次
去る10月に日本とメキシコとのFTA(自由貿易協定)交渉が決裂し、継続審議となった。交渉では、日本側にはセンシティブな農業部門の構造改革と通商戦略・交渉戦略の再構築の必要性を浮かび上がらせたが、メキシコ側にはどのような事情があったのであろうか。
FTA先進国のメキシコ
メキシコは、1994年に発足した米国、カナダとのNAFTA(北米自由貿易協定)に続き、コロンビア、ベネズエラ、チリ、EU(欧州連合)、イスラエルなど32カ国とFTAを結び、世界でも最も積極的にFTAを追求してきた国である。また、ウルグアイとは調印済みで、日本を含み交渉中の国も多い。
こうした2国間FTAへの積極的な姿勢は、メキシコで推し進めている経済自由化のための有効な手段であり、また、WTO(世界貿易機関)での多国間交渉と比べ、より早く合意に達することができることを基本的理由としている。
しかし、メキシコにはFTAを加速しなければならないもう一つの理由がある。NAFTA加盟後、メキシコの輸出は1993年の519億ドルから2002年の1600億ドルへと劇的に増加した。しかし、米国市場のシェアが急激に高まり、近年ではメキシコの輸出の89%が米国向けとなっている。他方、EU向けは3%強、ラテンアメリカ諸国へは3%弱に過ぎない。
メキシコにとれば米国への輸出拡大は歓迎すべきであるが、過度の輸出依存によって米国の景気変動の影響を直接的に被ることは避けるべきである。このため、米国、EUに続き、残る世界経済のセンターである日本とFTAを締結することは、米国以外との貿易を多様化・強化するために不可欠だと考えられている。
ところで、メキシコはこれまでに多数の国とFTAを締結してきた経験から、高度な交渉戦略と現実的な対応能力を兼ね備えている。例えば、EUとのFTAでは、EUの農業補助金をめぐる問題への妥協点を探ったが、最終的には経過措置としての段階的な自由化とウェイティング・リスト品目の設定という形で交渉を決着させている。
こうしたメキシコ相手の交渉では、FTA交渉にほとんど実績がなく、農業などの国内問題への取り組みと省庁間の十分な調整が伴わなかったことから、日本にとって極めてタフな交渉となった。だが、メキシコ側にも容易に妥協できない事情があった。
FTA疲れのメキシコ
メキシコでは、NAFTA発足から約10年が経過したが、NAFTAの便益が国民に浸透したとはいえない。例えば、カーネギー国際平和財団のNAFTAに関する調査によると、メキシコの製造業部門に関し、マキラドーラ(保税加工制度)産業では1994年と2003年の比較で55万人の雇用が増加したのに対し、非マキラドーラ産業では約10万人の減少、農業部門では130万人の減少となったとしている。
同様に、メキシコでは、NAFTA加盟後に実質賃金の低下、所得分配の悪化、地域間格差の拡大、不法移民の急増などが生じたとしている。もっとも、こうした問題には、1994年のペソ危機や労働人口増大などの要因も影響しており、NAFTAやその他のFTAの影響だけだとはいえないが、貿易自由化がこうした問題と深く関わっていることは否定できない。
このため、既に多数のFTAを抱えるメキシコにとれば、新たなFTAは明確な利益を得られない限り、国民の賛同を得られないという事情がある。実際、11月に入りメキシコ政府は、現在進行中の日本とFTAA(米州自由貿易地域)を除き、その他のFTA交渉は中断するとの方針を出している。
メキシコの産業界においても、これまでのFTAから利益を十分に引き出せない状況であり、これ以上のFTAは産業界にとって不利益になるだけだとの認識が強い。例えば、EUとのFTAで認められた関税割り当てに関しては、花、エンドウ豆、オレンジ果汁、パイナップル果汁、いちご、卵、アスパラガスなどでその割り当て量に達していないとされる。
また、貿易実績においても、メキシコは十分にFTAのメリットを享受してはいない。2000年に発効したEUとのFTAでみれば、EUが1999年から2002年までに対メキシコ輸出を36.7億ドルも増加させたのに対し、メキシコの輸出は1495万ドルの増加に過ぎない。また、多くの2国間FTAを形成しているラテンアメリカ諸国に対しても、同期間のメキシコの輸入が29億ドルも急増したのに対し、輸出は5億ドルの増加に留まっている。
2000年以降、米国の景気後退の影響によって対米輸出が伸び悩み、製造業部門で40万人近くも雇用が低下するなど、対米経済依存からの脱却はメキシコの喫急の課題となっているが、対米依存を打破する戦略としての2国間FTAは、これまでのところマイナス面の効果が目立っている。
こうした状況下で、メキシコは日本とのFTA交渉に臨んでいるといえる。確かに、日本はメキシコとFTAを結んでいないために、メキシコ市場への輸出や直接投資で著しい損失を被っている。だが、実は、日本の対メキシコ輸出は1998年から2002年にかけて45億ドルから93億ドルへと拡大している。他方、メキシコから日本への輸出は、2000年の9.3億ドルから2002年の4.7億ドルへ低下している。メキシコの総輸入における日本のシェアは5.5%であるが、総輸出における日本のシェアは0.3%に過ぎない。
以上のようなメキシコ側の事情を考慮すれば、明確な成果を必要とするメキシコとのFTA交渉が極めてタフとなることは避けがたい。今後の交渉においても、互いに妥協点を見出せない限り交渉は合意されない。果たして、わが国は交渉を成立させるための戦略的なカードを持っているのであろうか。