ドル化を目指すアルゼンチン

神戸大学経済経営研究所教授 西島章次

 今年一月にブラジルを襲った通貨危機は、隣国のアルゼンチンにも影響し経済は大きく動揺した。アルゼンチンでは、九一年四月から「兌換法」によって準カレンシー・ボード制を実施しており、通貨ペソはドルと一対一で固定されている。しかし、多額の対外債務を抱え、ブラジル経済に大きく依存することから、一時は市場にペソ切り下げの噂が広まる事態となった。

このため、通貨危機を完全に回避する手段として浮上してきたのが、ペソをドルに切り替えるドル化政策である。メネム大統領は、レアル切り下げ直後の一月二一日にドル化への構想を発表している。

アルゼンチンは既に実質的にドル経済となっている。たんに、日常生活でドルが使用されているだけではない。銀行でのドル預金はペソ預金を上回り、ドル建て貸付けも一般的となっている。金融市場の自由化によって、外国系銀行が圧倒的なシェアーを占めており、海外からの直接的なドル借入れも多額にのぼっている。この意味でドル化への条件は整っているといえる。

ドル化のメリットとデメリット

完全なドル経済となれば、為替レートの切り下げの可能性がなくなり、通貨危機は生じ得ない。同時に、アルゼンチンのように一四〇〇億ドルを超える多額の対外債務を抱える国においては、切り下げがもたらすドル債務のペソでの債務負担の増加という事態も回避できる。

また、アルゼンチン政府がドル化を主張する根拠に、「兌換法」によって既にドル化のコストを支払っているのに対し、十分に利益を享受していないことがある。完全なドル化でない限り、「兌換法」下にあっても為替の変動リスクは払拭されず、為替のリスク・プレミアムが存在する。ペソ建て債務の利子率とドル建て債務の利子率に格差が生じ、実際今年一月の銀行間レートの年利は、ペソについては十九・七五%であったのに対し、ドルについては一四・七五%であった。ドル化によって利子率が低下すれば、成長トレンドを引上げると考えられている。

一方、ドル化への批判も多い。まず、政府は通貨を発行しなくなるので、シーニョリッジ(通貨発行特権)を持たず、インフレ税による政府収入を失う。現在、アルゼンチンでは年間七億五千万ペソのインフレ税収入があるとされる。次に、中央銀行は通貨を発行しないので「最後の貸し手」としての役割を失うことになる。金融不安が発生した時に流動性を注入できなければ金融システムは崩壊する。さらに、金融政策が独立性を失うことや、国際競争力の改善のために為替レート政策を使えないことがある。

しかしアルゼンチンの事情を勘案すると、以下の反論も可能である。ドル化によって喪失されるシーニョリッジの額はGDPの〇・二二%に過ぎないし、シーニョリッジを米国とシェアーする協定も可能である。また、そもそもドル化によってインフレの安定が保証されることは、インフレ税収入を得ることより望ましい。「最後の貸し手」についても、現在アルゼンチンでは危機時に外国銀行から三〇億ドルの緊急信用枠を取り決めている。さらに、金融政策についても現在の「兌換法」においても既に同様の制約下にある。

米国の反応

ドル化への批判に対する以上の反論にはそれなりの説得力があるが、最も重要な問題点はドル化によって為替リスクは消滅しても、依然としてカントリー・リスクが残ることである。カントリー・リスクの指標であるアルゼンチン国債へのプレミアムは、アジア通貨危機直前に比べて、現在約三倍の高さとなっている。このプレミアムはアルゼンチンが大量の対外債務を抱えていることに拠るものであり、ドル化してもカントリー・リスクを低減させる保証はない。このため、ドル化の基本的条件として、国内の金融システムの強化と、公的債務の期間構造を長期化することが必要である。

既に、アルゼンチンと米国財務局、FED(連邦準備制度)と非公式協議がもたれたことが明らかになっている。しかし、これまでアルゼンチンの提案に対しワシントンからは公式の返事はない。アルゼンチンには一方的にドル化を宣言する道は残されているが、六月のメキシコ訪問時に、メネム大統領は米国との公式な協定に基づくドル化を行うと表明している。

したがって、アルゼンチンのドル化が実現するかどうかは米国の態度に依存するといえるが、米国にもメリット・デメリットがある。アルゼンチンがドル化すれば、シーニョリッジの獲得のみならず、経済関係が深化することが期待される。同じ通貨を有することは、ヨーロッパの共通通貨と同様に取引コストが低下し、貿易・投資の拡大が見込まれる。

だが、万一アルゼンチンで金融的不安がおきた場合、米国に対して金融支援の圧力となると同時に、国内の金融的独立性を持たないことが米国への批判と恨みをつのらせることになるかもしれない。米国とすれば、米国の金融政策や銀行規制政策を他国の事情で変更することや、FEDの窓口貸出へのアクセスを許すことは避けたいところである。

 去る四月二二日にサマーズ財務副長官(当時)は「ドル化を一方的に採用することは可能であるが、事前に相談すべきである」と述べているように、米国はじっくりとドル化の損得を見据えているところであるといえよう。