通貨安定への道のり険しいブラジル

神戸大学経済経営研究所 教授 西島章次

IMFの緊急融資

通貨危機がついにブラジルにも波及し、今年一月に変動相場制への移行を余儀なくさせた。一時は七〇%を超える切り下げとなるなど、経済は混乱した状況にある。ブラジルの通貨危機は、近隣のラテンアメリカ諸国や米国経済への影響が危惧されており、その行方は国際金融市場にとって極めて重要である。

ブラジルでは、昨年夏のロシア危機直後から通貨アタックに襲われ、八月から九月にかけて一挙にネットで約二五〇億ドルの資本が流出し、通貨危機の発生が懸念されていた。このため、一〇月に入りブラジル政府は大規模な財政安定化計画を発表し、一一月にはIMFを中心とする四一五億ドルの緊急融資を受け入れることになった。ブラジル側には財政緊縮化が要求されたが、為替レートを大幅に切り下げないとの条件が付けられていた。既に昨年一二月一四日に第一回目のトランシェとして九三億ドルが引き出されている。

 ところで、従来のIMFの経済調整策の基本メニューは、為替切り下げと財政緊縮政策の組み合わせである。しかし、インフレ抑制策としてドル・ペッグに強く依存するブラジルでは為替レートを動かせないため、もっぱら財政緊縮のみに頼らなければならない。国内均衡と対外不均衡の二つのマクロ不均衡の改善に対し、政策手段が一つ足りない状況である。為替切り下げが使えなければ、いっそうの経済引き締めが要求され、九九年は極めて厳しい景気後退が危惧がされることになった。

当然のことながら、厳しい景気後退の予想は財政安定化計画に抵抗する政治的圧力を強めることになる。そもそも、財政安定化計画の多くの項目は国会での承認を必要とし、憲法改正を必要とする項目については議会で五分の三以上の賛成を必要とするなど、法案の承認に困難が予想されていた。実際、公務員年金の改正案は一二月に下院で否決され、最も増税効果の大きい小切手税も一月にまで審議がずれ込むことになった。こうした法案審議の過程は、財政安定化計画について海外の投資家に強い疑念を抱かせるものであり、今年一月に入ってからの投機アタックの一つの背景となるものであった。

さらに、一月六日にはミナス州知事が財源不足を理由に連邦政府に対する約一五〇億ドルの債務について九〇日間のモラトリアムを宣言。こうしたミナス州知事の動きに対し、リオ州など野党系の知事が同調する動きが見られ、財政緊縮化に対する市場の不信感を増幅させることになった。

変動相場制への移行とその後の混乱

ミナス州知事のモラトリアム宣言以後の市場の動揺は激しく、再び資金流出が激しくなった。政府は一三日に新しい為替バンドを設定したが、資金流出を止めることはできず、ついに一五日には中央銀行は為替介入を放棄し、変動相場制への移行となった。レアルは一・五五まで切り下り、結局六日から一五日までにネットで約五〇億ドルが流出したと推定されている。

 ところで、今回の変動相場への移行は、まだ外貨準備に余裕のある段階であっただけに、一般の予想より早いタイミングで実施されたといえるが、為替レートを維持するためにいたずらに為替市場介入を続ければ、いずれ外貨準備が枯渇することになり、これを回避するためであるとされている。タイやロシアの通貨危機からの学習効果であると考えられ、IMFも早期の変動相場移行を薦めたと報じられている。

 しかし、ひとたび為替レートが自由化されると、レアルの減価は止まることを知らなかった。二二日には中央銀行が一五日以来初めてレアル安に歯止めをかけるためにドル売り介入を行ったが、一・七四レアルにまで下落し、為替市場への介入を断念する事態となった。しかも、変動相場への移行後に財政安定化計画の重要法案が承認されたにもかかわらずレアルが売られる展開となっており、レアルの下落に対して有効な政策がない手詰まり状態になっていたといえる。

さらに事態を悪化させたのが、このような政策の手詰まり状態に対し、市民の間で預金封鎖の噂が流れ始め、金融機関の取付け騒ぎが始まったことである。海外投資家の側でも、為替コントロールの導入、対外債務支払い中止などの憶測が広まり、ブラジルへの信任はいっそう低下し、二九日には為替レートは二レアルの壁を突破してしまった。

こうした事態に対し、政府はIMFのミッション・チームと新たな政策合意を二月四日に発表し、財政の一次黒字(国債利払いを含まない収支)を三〜三・五%に引上げること、インフレを一〇%以内に止めることをなどの目標を明らかにした。さらに驚くべきことに、中銀総裁に就任して三週間余りのフランコ氏を更迭し、二月二日にジョージ・ソロス氏の右腕とされるアルミニオ・フラガ氏を中銀総裁に任命した。フラガ氏は、直前までソロス・ファンドの新興市場担当のマネージング・ディレクターであり、ロペス氏に欠けていた為替オペレーションのプロフェッショナルである。これまでレアルに対して投機アタックを仕掛けていた張本人が、いまやレアルを防衛する総本山の中央銀行の総裁となったことになる。いわば毒をもって毒を制する戦略であるといえる。中央銀行総裁の解任劇に対し、市場は好感し、レアルは以後一・九のレベルを維持することになる。

 こうした市場の好感は、グローバル化した世界経済にあっては、市場を動かすヘッジファンドを無視しては有効な経済政策が実施できないことから、ブラジルがヘッジファンドとの共生の道を探ろうとしていると認識したことによる。しかし、フラガ氏といえども、緊縮政策と高金利政策で縛られたなかで、金融政策の微妙な舵取りを行い、為替レートの安定化と政治的安定を実現するには多くの困難が待ち受けていることには変わりない。

レアル切り下げがもたらす問題点

ある意味で、今回のレアル切下げは、ドル・ペッグ政策がもたらす過大評価に対して市場が切下げ圧力をかけていたものであり、望ましい調整局面を迎えたとも解釈できる。しかし、為替の切り下げには様々な問題がある。

第一はインフレの再燃である。レアル切り下げはマクロ不均衡を是正する望ましい調整であることには変わりないが、もはやインフレ抑制策としてのアンカーの機能を失うことになる。切り下げは輸入財価格の上昇をもたらすが、これを織り込んだインフレ期待の上昇が不可避となる。既に便乗値上げが深刻となっており、一月末の時点で、基礎食料品は二一%の値上げとなったと報じられている。

 第二は、対外債務支払いの負担増である。九八年一一月現在のブラジルの総対外債務残高は二二九一億ドルで、そのうち民間部門が一四三七億ドルを抱えている。現地の有力雑誌「エザメ」によると、今年の返済予定額は五六〇億ドルに達するとされる。いうまでもなく、為替レートの切り下げはドル債務者の国内通貨での債務額を増加させ、支払不能となる債務者を頻発させることになる。

 第三は、貿易収支改善の効果である。しかし、貿易収支の改善には時間を必要とする。また、為替レートが乱高下すれば十分な貿易収支の改善は望めない。現在の厳しい景気抑制政策のもとで、唯一景気にプラスとなると考えられるのは輸出の増加であるが、輸出産業の拡大には時間を要し、それまでに厳しい不況が続けば失業問題が深刻となる。

 通貨危機終息への課題

 ブラジルの通貨危機へのプロセスは当然の帰結であった。レアル計画による為替アンカーは為替の過大評価をもたらし、いずれ切り下げへの調整が不可避となる。海外からの多額の資金流入によって対外不均衡を埋め合わせていたことは、いずれ必要となる為替の調整を引き伸ばしていたに過ぎない。リターンとリスクに敏感な資金移動がもたらす通貨アタックは、必要な調整をもたらす一つの過激なきっかけとみなすべきであろう。

ところで、通貨危機終息にとって、もっとも問題があると考えられるのは四〇%近くに達する高金利政策である。IMFがブラジル政府に最も強く要求している政策でもある。高金利は、貿易収支の改善、インフレの抑制、資本流入の促進に必要であり、海外の投資家の信任を取り戻すために不可欠とされる。しかし、同時に国債の利払い負担を高め、ブラジルの財政赤字を大きくしている。九八年には国債の利払いは実にGDPの八%に達した。

問題は、投資家が財政赤字の存在故にブラジルを信頼しないことである。信任を回復するために要求される高金利政策は、国債利払いの増加と景気後退がもたらす税収低下によって、財政赤字の拡大要因となる。高金利のもとでは、他方で財政緊縮化を推し進めても財政赤字は縮小せず、投資家の信頼が低下するという悪循環に陥ることになる。

こうした悪循環を断ち切ることは容易ではない。ハーバード大学のサックス教授はIMFの融資を受け入れるが、低金利政策を実施せよと提案している。ブラジル政府も高金利政策の弊害を十分に理解しつつも、外貨準備が三六〇億ドルのレベルとなった現在では、第二ラウンドの追加融資九三億ドルに頼らざるを得ない状況であり、金利の引き下げを主張できる立場にない。

したがって、今後はできるだけ早い段階で、変動相場制下での新たな金融政策の原則を策定し、柔軟な金利政策とすみやかな均衡レートへの収束に努力すべきである。さもなければ、ブラジルの通貨危機が最悪のシナリオをたどり、ブラジルの通貨危機を引き金として国際金融システムの混乱へと導く可能性も否めない。

(二月二二日記)

 

以下参考

ところで、フラガ総裁がインサイダー取引を行ったのではないかと問題となっている。ことの起りは、MITのクルーグマン教授がインターネット上で発表した二月一一日の論評で、フラガ氏が中銀総裁に就任する直前に、ソロス・ファンドが大量にブラジルの債務を買っていた事実があり、フラガ氏の就任後にレアルが値をもどしたことから、フラガ氏の情報提供を暗に指摘したことによる。この件は一時的にブラジルのマスメディアを賑わしたが、最終的にはクルーグマン教授がフラガ氏に謝罪したため、フラガ氏によるインサイダー取引はなかったとすることで決着しそうである。それにしても、リアル・タイムで情報を伝えるインターネットの普及が、通貨危機などの重大なことがらに無視できない影響を及ぼすことを改めて認識させたできごとであった。