タイの通貨不安はブラジルに波及するか

神戸大学経済経営研究所教授 西島章次

今年七月二日、タイが変動相場制に移行し、通貨不安が表面化した。タイの通貨不安を契機に、東南アジア諸国では株価と通貨の下落が加速している。こうした動きに対して、ラテンアメリカでは、九四年のメキシコの通貨危機の経験もあることから、通貨不安の波及が懸念されている。とくに、ブラジルはタイと似た状況にあり、通貨不安が心配されている。

タイとブラジルは、第一は自国通貨をドルにリンクして経済安定化を実現していること、第二に経済の開放に伴い輸入が急増していること、第三に大きな経常収支赤字が存在しそれを外資流入で補填していることなどで類似している。このため、ブラジルが通貨不安となった場合、他のラテンアメリカ諸国への影響が大きいと予想されるため、テキーラ効果ならぬカイピリーニャ効果(ブラジルの地酒をベースとするカクテル)という言葉が登場した程である。

タイの経緯

近年のタイ経済は、貯蓄不足・経常収支赤字を海外資金流入で補填してきた。タイでは米ドルに連動する為替相場が採用されているため、海外投資家からみればドル建ての投資は、為替リスクを伴わないで金利やキャピタルゲインを得ることができる。このため、多額の資金が流入し、株式・不動産投資は過熱し、バブル景気の様相を呈していた。

しかし、これまで好調であったタイ経済も、長年にわたる為替の過大評価、急激な賃上げ、日本の不況、中国輸出の攻勢から、昨年から輸出がマイナス成長となるなど、経済に陰りが見え始めてきた。経常収支赤字、対外債務が高まるに同時に、旺盛であった海外資金流入も減少し、九六年には株式投資の流出が始まり、実質的にバブルが崩壊することとなった。九六年の一年間には平均株価指数は一四〇〇から五〇〇へと暴落している。

今年二月はノンバンクの経営破綻が明らかとなり、公的資金が投入されたが、事態はさらに悪化し、結局今年八月時点で五八のノンバンクが営業停止となるなど、金融不安が表面化している。現在は有力銀行に預金が集中するなど、事態はいっそう深刻化している。

このため、海外投資家の信頼を回復し資金流入を確保するここと、輸出競争力の回復のために為替の切り下げが不可避となった。しかし、切り下げはバーツ換算した負債の増加をもたらす。このため、積極的な海外資金調達によって大きな負債を抱えている企業は、返済困難となる企業が増加する。このため、経営が悪化している金融機関はいっそう不良債権を抱えることとなり、金融不安となる。

ブラジルの状況

こうしたタイの状況とブラジルとはある意味で極めて似た状況にある。ブラジルでは今年に入り株式市場が急騰している。例えば、株式投資信託の残高は六ヶ月で三〇〇%近い増加(一八六億ドル)。平均株価は今年の一月から七月の間に九一%も上昇している。国内投資家が海外から自国市場にシフト、同時に米国からの株式投資が急増しているからである。レアル計画でインフレが沈静化した以降、資本市場が急激な拡大している。例えば、株式発行額は、九〇年の七・八億ドルから九六年の九一億ドルに達している。外貨建て資金調達は半分以上が非金融機関によるもので、証券・債券を通じて海外から資金調達できる企業は資金コストで有利になる。

しかし、七月上旬には、タイの通貨危機の煽りと、モッタ通信相の経済チームの批判を契機に株価が一五%も暴落した。その後株価はすぐに反発したものの、八月末から九月始めにかけて乱高下するなど、不安定な状況が続いている。背景には、過大評価による貿易収支赤字が深刻化しており、為替レート切り下げ予想がある。現在ブラジルでは、切り下げが経済界におけるもっともホットな話題である。切り下げ予想が強くなれば、資本逃避が深刻化し、メキシコ、タイの通貨危機の二の舞とならない保証はない。ブラジルの国内外でタイの通貨不安が伝播するとする危惧は少なくない。

しかし、ブラジルとタイではかなり事情が異なるようである。東南アジア諸国は長期間にわたり大きな経常収支赤字を継続してきた。ブラジルの対GDP比は、四%強であるが、タイのそれは八%強に達する。外貨準備は、ブラジルでは約一年分の輸入に相当するが、タイでは六ヶ月程度である。資金流入の内訳は、ブラジルでは九七年は民営化を反映して四〇%近くが民営化などに伴う直接投資となっているが、タイでは例えば九六年で見ると一五%程度に過ぎず、利子率格差や為替リスクに敏感な短期資金に大きく依存している。

さらにブラジルでは、銀行セクターの健全化が進展している。インフレ抑制とともにフロート利益が消滅し、各銀行は合理化・効率化を進め、既に問題を抱える民間銀行は整理され、(残るは州立銀行とBBのみ)となっている。このため、銀行部門が抱える不良債権は縮小し、純資産も増加している。また、外国銀行による買収も始まっている(香港上海銀行によるバメリンドス銀行の買収、スペイン系のサンタンデールによるノルデスチ銀行の買収など)。今後、いっそうブラジルの銀行部門の健全化は進むと考えられている。さらに現地の論調は強気である。アジア嫌った資金がラテンアメリカに向かうという議論や、民営化によって今後の五年間で八〇〇億ドルの資金流入が見込まれるため、通貨危機とは無縁であるという議論である。

だが、ブラジルの経常収支赤字は、九七年一月から七月で一八九億ドルに達している。このペースで行けば、今年の経常赤字は昨年の二〇三億ドルを軽く超過しそうである。貿易収支が九五年から赤字に転じ、九六年には五五億ドルの赤字で、九七年には一〇〇億ドルを超すと予想されている。インフレ抑制のために為替レートの固定化が必要であるが、為替レートの固定化は大きく過大評価となっており、貿易収支のいっそうの悪化は避けられない。このため、市場では為替の切り下げ予想が広まっており、株価の乱高下の要因となっている。投機的資金が大規模に動けば、通貨危機が発生しないとも限らない予断を許さない状況である。結局、行財政改革によって、インフレ安定化を盤石にすると同時に、投資資金に対する適切な監視・管理と資本逃避を回避する対応が必要である。