ブラジルー転換点に立つ安定化政策

神戸大学経済経営研究所 教授 西島章次

一九九四年七月の「レアル計画」以後、ブラジルのインフレはすっかり影をひそめてしまった。「レアル計画」直前の年間インフレ率は実に五五〇〇%にも達していたが、今年(九六年)九月には月間のインフレ率がマイナスとなるなど、約四〇年ぶりの低インフレとなっている。インフレの沈静化によって、国際的にも信任を取り戻し、海外資金・直接投資が流入するなどエマージング・マーケットとして着目されるにいたっている。

盤石ではないインフレ抑制政策

しかし、現在のブラジルのインフレ抑制政策は、必ずしも万全であるとはいえない。抜本的な財政改革は実現しておらず、為替レートの固定化に依存したインフレ抑制をどうにか維持している状態である。こうしたインフレ抑制策をカバーしている主役は、高めに誘導された利子率である。高利子率は、財政赤字を補填する国債発行の市中消化に必要であると同時に、内外利子率格差を作り海外資金を流入させる手段である。また、インフレ低下がもたらす購買力増加に対する需要抑制の手段ともなっている。

だが、高利子率は産業界に大きな打撃を与えている。高利子率と貿易自由化による競争激化の同時進行に経営環境は悪化し、産業・企業は急激なリストラを迫られている。このこと自体は、長期的には産業・企業の競争力改善につながるが、短期的にはその調整コストは大きく、とくにリストラによる雇用の低下は深刻である。

さらに大きな問題は、インフレ抑制の要である為替レートの固定化が大きなディレンマを抱えていることである。「レアル計画」以後、およそ一ドル=一レアルの為替レートが維持されてきたが、一方で今日までの累積インフレ率が三〇%程度であることから、実質的にブラジルの為替レートは過大評価となっているといえる。これまで、過大評価がもたらす国際競争力の低下を、産業のリストラに依存した競争力改善でどうにかカバーしてきた。 しかし、九五年には一五年ぶりに貿易収支が赤字となり、九六年の貿易赤字は四〇億ドルに達したようである。今後、貿易赤字がいっそう深刻となれば為替レートの切り下げが不可避となるが、切り下げは為替レート固定化に基づくインフレ抑制策の放棄を意味し、政府としてはそう簡単には切り下げできないという事情がある。

正念場の一九九七年

こうしたインフレ抑制政策に対して、MITのドーンブッシュ教授がゼロ・インフレに固執する政策を批判したことが報道されたが、ブラジル経済に影響力のある経済学者の見解だけにブラジル政府が反発するなど、大きな物議をかもすこととなった。

経済省の予測では、九六年の実質成長率は二・五%、インフレ率は一〇%前後となっており、まずまずの経済成果を実現したといえるが、九六年には財政赤字と貿易赤字が拡大してしまった。財政赤字はGDPの三・五%から四%の見込みであるが、今後、財政破綻の州立銀行や州政府救済などが残されており、いっそうの財政赤字は避けられない。

こうした財政赤字は基本的に国債の発行で補填されており、国債残高はGDP比で九五年八月の三一・二%から九六年八月には三五%へと上昇している。ブラジルの国債は満期が数十日と短く準通貨とも呼べる債券であるため、国債残高が増加すれば国内の流動性を高め、インフレのコントロールを困難とする。一九九〇年前後のハイパー・インフレの基本的要因が、こうした国債の累積であったことを忘れてはならない。したがって、現在の低インフレを持続していくには、財政健全化が決定的に重要である。しかし、行政・年金・租税改革などの財政改革に必要な憲法改正に対し、議会での抵抗が大きくあまり進展してないのが現状である。この意味で、最近の大統領再選に関する憲法改正論議は、カルドーゾ大統領再選の目的の一つが財政改革の完成にあるとされているだけに、再選問題と財政改革がどう関わるか興味深い。

ところで、ブラジルは現在、五八〇億ドル程度の外貨準備を保有しているが、九七年の貿易赤字は七〇億ドルから八〇億ドルに達すると予想されている。加えて、九七年には対外債務の償還が一八〇億ドル、利払いが一四〇億ドル予定されており、海外資金の流入状況によっては(この点に関しては米国の金利が上昇した場合の影響が懸念される)、現在の外貨準備高が十分であるという保証はない。問題は、外貨準備が低下すれば為替レートの固定化が続けられなくなり、安定化政策を中断せざるを得ない事態となる点である。

ブラジル政府がインフレ再燃を恐れて為替レート維持に固執するなら、残された手段は保護貿易政策や輸出促進政策の復活というシナリオとなる。現在でも現地生産する自動車メーカーを輸入関税で優遇する投資促進措置を実施し、日本などからWTOに提訴されているが、今後こうした政策が新たに採用されないとも限らない。九七年はブラジルにとって安定化政策と自由化政策のターニング・ポイントであり、注意深くブラジルの動向を見ておく必要があるといえる。