政治・経済の両面で苦悩するメキシコ

神戸大学教授 西島章次

メキシコは、ネオリベラリズム(新経済自由主義)に基づく経済改革の「優等生」とみなされていたが、一九九四年末から九五年初頭にかけて金融危機に見舞われ、短期資金流入に依存したエマージング・マーケットの脆弱さを露呈することとなった。その後一年余りが過ぎたが、現在のメキシコ経済はどのような状況となっているのであろうか。

金融危機以降の困難な経済状況

金融危機以後のメキシコ経済は、極めて厳しい経済抑制を強いられている。このため、貿易収支は一九九四年の一八五億ドルの赤字から、九五年には七四億ドルの黒字となり、経常収支も九四年の二八八億ドルの赤字から九五年にはほぼ均衡したと予想されている。外貨準備は、九四年末の六一・五億ドルから九六年一月には一六〇億ドルにまで回復している。いかに厳しい調整政策が取られているかが理解される。

しかし、このような厳しいデフレ政策によって、一九九五年の実質経済成長率は実にマイナス六・六%となる見込みである。また、短期国債セテスの利回りが年率で六〇%となるなど、著しい高金利となっており、不況が深刻化するなか銀行貸し付け残高の一六・五%が回収できないほどの状況であり、メキシコの金融部門は深刻な状況に置かれている。他方、九五年のインフレ率は五二%に達している。

さらに、エル・フィナンシエロ誌によると、外国投資は一九九五年の十一カ月で二六七億ドルも減少したと伝えられている。このため、九五年には国内固定資本形成は三〇%の低下が見込まれ、百万人以上の失業者を出したと推定されている。 これまで、海外からの資金流入に大きく依存した経済成長であっただけに、資金流入の激減が与える影響は深刻である。いまやメキシコでは、弱小企業が次々と倒産し、街には失業者が溢れ、かつてのエマージング・マーケットの勢いはない。

メキシコ経済回復の条件

しかし、肯定的な材料が無いわけではない。メキシコの株価指数は昨年後半より上昇傾向にあり、金融危機前の水準にまで戻している。また、為替レートも比較的安定しており、一ドル=七・五ペソの水準を維持している。景気は一九九五年九月に底を打ったという説もある。この意味で、第一段階の調整が達成されたことは否めない。しかし、以下の理由からメキシコ経済が再び高い経済成長を実現するのは容易ではない。

金融危機に対する調整政策の主役は高利子率政策であるが、政府は貿易収支の改善とともに利子率を引き下げ始めている。一九九六年二月にはセテス金利は三六・二%にまで低下した。確かに、現在の深刻な経済停滞を回避し社会的圧力を緩和するためには、利子率の引き下げによる景気刺激が必要である。また、銀行部門の崩壊を回避するためには、利子率の引き下げによる債務負担の軽減が必要である。

しかし、大幅な金利引下げは時期尚早であるとの観測を無視できない。一九九六年一月のインフレ率は三・六%に達したが、この率では九六年の政府目標である年率の二〇・五%を達成するのは明らかに困難である。インフレ抑制が確実なものとならなければ、メキシコ経済の信任の回復は困難である。一つの典型的な事例は、九六年一月の金利引き下げに対して、債権格付け機関であるStandard & Poorが、メキシコの対外債務のグレードをBBにまで引き下げたことである。結局、メキシコ経済は依然としてマーケットの信頼を得ておらず、このような状況下での景気回復への舵取りが極めて困難であることを物語っている。

 いま一つの深刻な問題は、混迷する政治的状況である。北米自由貿易協定(NAFTA)発足と当時に発生したチアパス州での武装蜂起に関し、先住民組織「サパチスタ」との政府交渉は決着していない。また、コロシオ大統領候補の暗殺やルイス・マシュー制度的革命党(PRI)幹事長暗殺の真相解明は依然としてなされおらず、しかもこれらの事件に対する前サリナス大統領の関与も取り沙汰されるなど、深刻な政治的混乱が続いている。

さらに、 経済政策に関しても政治的合意が動揺し始めている。例えば、一九九六年一月には、PRI内部の議員からPRIの幹事長に対して、ネオリベラルな経済政策の放棄を要求する文書が送られ、PRI内部にあってもネオリベラルな経済政策に関する対立が存在することが明らかとなっている。政治的混乱が引き続き、安定化の持続とネオリベラリズムにのっとった経済政策の維持が困難となれば、もはや国際金融市場からの信頼は得られず、メキシコの経済改革が挫折することは避けられない。

最後に、米大統領候補の指名を争う共和党の予備選挙の動向に注意しておかなければならない。選挙の争点として、メキシコは重要な問題となり得る。不法移民の問題(一九九四年の百十万人から百三十万人にまで増大したとされる)。メキシコからの安価な輸入がもたらす雇用喪失の問題。メキシコ・カルテルを通じる麻薬問題など、である。ドール上院院内総務やフォーブス候補など、いずれの候補が指名されるにせよ、以上のメキシコに関わる問題が大きな争点となる場合には、米国の対メキシコ政策が大きく修正される可能性を否定できない。