ブラジル−インフレの終息に成功する条件−

神戸大学経済経営研究所教授 西島章次

 筆者は、この八月にブラジルを訪問する機会を持った。以下はその報告である。
 周知のように、ブラジルでは昨年まで高インフレが蔓延していた(九四年六月までの一年間のインフレ率は実に五、〇〇〇%を超えていた)。しかし、昨年七月に導入されたレアル計画(レアルは新通貨の呼称)によってインフレーションは鎮静化している。今年の七月には月率で三%、八月はさらに低下したと予測されている。
 しかし、インフレ率の低下にもかかわらず、諸物価は高止まりしており、とくに中産階級を直撃しているようであった。われわれ旅行者にとっても、現地通貨レアルの過大評価のためドル換算した諸物価は極めて高く、とくにホテル、レストランなどのサービス業の価格は日本よりも高い感じであった。庶民感覚からすれば、インフレ率の低下によって諸物価が高騰した現象は、一種の「パラドックス」に写るようである。

手詰まりのインフレ抑制政策
 ブラジルにとって高インフレの抑制は最重要課題であった。これまでのハイパーとも呼べる高インフレは、資源配分を歪めブラジル経済を弱体化させてしまった。金融的投機への投資が加熱し、実物投資が収縮してしまったことが典型例である。また、高インフレは社会階層間での所得の再配分を引き起こし、貧困問題をいっそう悪化させてきた。このため、経済成長と社会的安定を維持するためには、インフレ抑制が必須条件となっていたのである。
 一九八〇年代後半より、インフレ抑制のための安定化政策が幾度も実施されてきたが、価格凍結など強引な政策のためことごとく失敗に帰していた。しかし、今回のレアル計画は、実質的に諸価格をドル価格にリンクさせ、同時に為替レートを安定化させる方策を採用したため、比較的スムーズにインフレ率が終息している。
しかし、このような為替レートを価格のアンカー(錨)とする政策は、貿易財のインフレ抑制に有効であっても、非貿易財を含む全体の長期的なインフレ抑制には、やはり需要の厳格なコントロールが必要である。実際、レアル計画実施直後には、インフレ率の低下による実質貨幣残高の上昇によって消費需要が高まり、昨年は消費ブームが引き起こされている。このため、現在では高金利政策などの厳しい金融政策で対応している。しかし、インフレ率低下に伴う需要圧力は強く、とくにサービス産業のような非貿易財へのインフレ圧力は依然として強い。このため、為替レートの過大評価によって貿易財価格からのインフレ抑制を強めるとともに、高金利政策などを維持してどうにかインフレ抑制を続けている状況である。

果たしてインフレ抑制は成功するか
 しかし、もっぱら為替レートの過大評価と高金利に依存したインフレ抑制政策の継続は、長期的には深刻な矛盾を抱えている。高利子率の維持は、民間部門の投資意欲を阻害しており、設備投資を停滞させている。また、企業はこれまでの高インフレに慣れきった経営体質からの脱却を迫られており、投資の拡大ではなくリストラによって対処しているため、失業問題が深刻となってきている。
 一方、為替レートの過大評価は、これまで圧倒的な黒字であった貿易収支を昨年一一月より赤字に転じさせている。いうまでもなく、為替レートをアンカーとするインフレ抑制政策は、潤沢な外貨準備を基本的条件とし、外貨市場での政府の制約のないオペレーションによって為替レートを安定維持させることに依存しているため、貿易赤字の出現はインフレ抑制の基本的条件を揺るがすものである。実際、レアル計画開始時点で四三〇億ドルであった外貨準備は、今年八月には三三〇億ドル程度に低下したと予想されている。さらに、昨年暮れにメキシコで生じたような通貨危機が、万一メキシコもしくはアルゼンチンで再燃すれば、大量の外貨の海外逃避が生じ、ブラジルの安定化政策が頓挫する可能性は高い。
 したがって、問題は、為替レート政策と金融政策のみに依存したインフレ抑制政策にあるという点である。やはり、長期的な需要のコントロールには、財政改革が不可欠である。インフレ抑制が結局は財政改革の進展に依存しているという構図にあるのであれば、これまでの状況と変わりはないといえる。しかし、抜本的な財政健全化には、憲法改正を必要としている。中央政府から地方政府への移転支出、硬直的な社会関連支出などに関する憲法の改正がなければ財政の健全化は困難である。
 しかし、このような憲法改正には政治的な抵抗が強い。議会運営に失敗すれば、憲法改正の法案が通過する可能性は少ないといわれている。高金利と為替レートの過大評価に依存したマクロ運営は、一九八〇年代後半の米国経済と似ているといわれ、ハードランディングするかソフトランディングするかは誰にも判らない状況である。ともあれ、現在のインフレ抑制政策が最終的に成功したことが明確になったときに、初めてブラジルは投資対象国として重要な意味を持ってくるといえる。