タイトル
明治期日本の複式簿記の浸透と近代化問題 −モダンとポストモダンの相克−(Ver1.0)

要旨

本稿では、明治期における近代化が2 つの局面に分けられること、すなわち明治維新から井上 内閣すなわち明治20 年頃までの、西洋文化を取り入れて不平等条約の解消に取り組もうとした 前半期と、それ以後富国強兵政策に転じて日清日露両戦争を経験し列強国に列せられ不平等条約 を解消する後半期に分けられることを前提に、複式簿記や株式会社といった諸制度は、お雇い外 国人の指導下で比較的早い時期に文化的要素として導入されることを指摘する。
またここでいう文化とは近代化理論にいう資本主義的近代化を支える「合理主義」的な文化を 指すのではなく、方法的基礎としてのポストモダンに依拠した文化理解を指すことも主張する。 さらにこうした一般的な理解(仮説)の基で、明治期に複式簿記を導入した2 つの企業、兼松商 店と小西酒造の分析を行う。一つはその明治の創設当初より複式簿記を採用した企業の例として、 一つは江戸時代から大福帳を用いていた企業が明治期に西洋式複式簿記の採用にいたった例と して取り上げる。
兼松商店は、設立期の明治22 年から複式簿記(シャンド式)を採用するが、複式簿記を記帳 する革張りの豪華な帳簿が、当時の神戸のビジネス界における西洋化の風潮に合致していたがゆ えの採用である側面が大きい。逆に言えば計算合理性の観点から必然的に要求された形態である とは言いがたい。
小西酒造は、明治期、家業と当主の個人的・名誉職的経済活動を峻別して、結果、当主個人の リスクを取る名誉職的経済活動・投資活動からの家業への影響を遮断しようとした経緯がある。 その際に形式的には、家業を明確にしようとする番頭・支配人からの上申という形で、家業を担 う組織改革の一環として、当時流行していた西洋文化を取り入れるべく複式簿記を導入した。そ こには大福帳を捨て去る実質的な理由は見当たらず、むしろ新しい組織変革の象徴として当時の 文化的な流行としての複式簿記が取り入れられたと解される。その証拠として、小西酒造は単 式・複式簿記の混合形態的な記帳システムを採用していた名残がある。
もちろん両企業ともに、当時の経営者が銀行業務に関与していた事実は見逃せない。小西業茂 は日本銀行の幹事職を仰せつかっていたし、兼松房次郎は三井銀行に就職していた時期がある。 明治期の複式簿記は銀行業界から波及していったものだからである。


連絡先:〒657−8501
     神戸市灘区六甲台町2−1
     神戸大学経済経営研究所
     山地 秀俊
     藤村 聡
  TEL: 078−803−7036
  FAX: 078−803−7059